まるさの由来(讃岐屋の歴史)屋号の由来は、江戸時代の中期まで遡ります

大正初期のかつお工場
昭和10年の本社工場
昭和38年 皇居前で黒木増太郎と水永貞吉兄弟

当時は、”讃岐屋”という屋号で、漁業と廻船問屋を営み、主に関西地区との交易をしておりました。
水永水産の母屋にあたる”黒木家”には、安永三年 (一七七四年)に建立された「青面金剛像」を刻む庚申塔があり、側面に「黒木庄蔵」の刻銘があります。

この黒木庄蔵は「讃岐屋庄蔵」と呼ばれ、屋号が”讃岐屋”であったことから”まるさ”の屋号が付けられました。
明治、大正、昭和にかけては、鰹節の他に”煮干し”や”干物”も加工するようになり”讃岐屋”の工場も賑わいを呈するようになりました。

戦後、讃岐屋は、漁法を”かつお漁”から”巻き網漁”に移行し、アジ、サバ、イワシを主体とした加工原料の生産をするようになり、昭和二十四年、四月”合資会社 水永商店”が水永貞吉によって創設されました。
以来、”まるさ”の暖簾に恥じない製品づくりへの思いは、江戸、明治、大正、昭和、平成と長きに渡り脈々と受け継がれています。
我々は、先人の遺してくれた果敢な開拓精神と、飽くなき探究心を引き継ぎ、お客様に満足していただける物作りを目指します

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